赤間神宮会館龍宮殿
赤間神宮の歴史
八百有余年の昔、平清盛は平家一門の基盤を盤石にするため娘の徳子(建礼門院)を高倉皇に嫁がせます。徳子(建礼門院)と高倉天皇の間に授けられた子供が安徳天皇です。しかしながらこの施策も虚しく平家は源平合戦によって敗戦を重ねていきます。そして壇ノ浦の戦いで敗戦が決定的になると安徳天皇の祖母である二位尼(平清盛の妻)が、安徳天皇を抱きかかえ入水し、わずか8歳でその生涯を終えます。
「今ぞしる みもすそ川の おんながれ 波の下にも 都ありとは」、二位尼(平清盛の妻)が入水する際に安徳天皇に対して詠んだと言われる歌です。「海の底にも都はあります」と言う意味です。大東亜戦争で焼失した赤間神宮を再建する際にこの歌をイメージし、赤間神宮は竜宮城のような造りとなりました。
龍宮殿
龍宮殿は、赤間神宮御祭神"安徳天皇"御誕生八百年を記念して昭和五十三年三月一日竣工しました。前方に関門海峡を臨み、後は紅石山のやさしい緑につつまれた環境は、晴れの門出をより厳粛にいたします。龍宮殿は従来の式典場「水天閣」に接続新築落成したもので、更に大きく行きとどいた設備で皆様をお迎えいたします。会場は、"龍王の間""飛龍の間"と近代設備の写場をかまえたもので、おふたりはもとより、お招きされたお客様にも、素晴しい思い出となって、深く心に残ることでしょう。
赤間神宮の年中行事
七月
十五日・・耳なし芳一祭(琵琶奉納演奏)
二十九日・・鎮守八幡宮夏越祭・夏越大祓神事(旧暦六月三十日)
九月
二十三日・・秋季皇霊祭遥拝式
(上旬)仲秋観月祭(~十月上旬)
十一月
(上旬)・・菊花祭
十五日・・七五三詣(十月~十二月基本受付。他月も可)
二十三日・・新嘗祭
八月
(上旬)・・緑蔭学級開催
十五日・・靖国神社遥拝式
十月
一日・・大連神社秋祭
六日・・管絃と舞楽の夕べ
七日・・秋季例大祭・関門海峡祭
十五日・・鎮守八幡宮秋季大祭
二十日・・うに供養祭・紅石稲荷神社秋祭
十二月
十日・・しめなわ祭
二十七日・・すす払い神事
二十八日・・餅つき神事
三十日・・大祓式
三十一日・・・除夜祭
ご祈祷のご案内
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初宮詣
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七五三
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安産
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交通安全・家内安全
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厄除け
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病気平癒・健康長寿
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受験合格・学業成就
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商売繁盛
※その他諸祈願を承ります。
ご祈祷料
個人諸祈願 5,000円程度を目安に。
会社団体 10,000円
ご案内
水天門の由来
安徳天皇が水天宮の祭神とされる赤間神宮の水天門は、壇ノ浦の合戦の終焉間際に二位尼(平清盛の妻)に抱かれて関門海峡に御身を投じた安徳天皇が祀られています。
入水する際、二位尼(平清盛の妻)が安徳天皇に対して詠んだと言われる歌「今ぞしる みもすそ川の おんながれ 波の下にも 都ありとは」は、幼い安徳天皇の不安なお気持ちを鎮められた二位尼(平清盛の妻)の深い慈愛の心が反映されています。
特殊神事 先帝祭
毎年、五月二日の御祭神安徳天皇御命日を皮切りとして以後三日間に亘り行われる行事です。
入水された安徳天皇を弔うため、その命日に遊女に身を落した平家の官女達が参拝したことに始まったもので、打掛けに太鼓帯の衣裳を身にまとった5人の太夫が稚児・警固・官女・禿をひきつれ赤間神宮に参拝します。
先帝祭は下関市指定無形民俗文化財に指定されています。
源平合戦
平家と源氏の雌雄をかけた源平合戦。その最後の舞台となったのは、長門国赤間関壇ノ浦の海上。
寿永4年、両軍の軍船が関門海峡に集結。源義経が率いる源氏勢、対する平家の武将率いる平教経。天下分け目の大海戦は、矢合わせを合図に火蓋を切って落とします。
源氏が優勢になるにつれ、平家から源氏へ裏切るものが相次ぎ、平家の武将平教経は、義経を討とうとして追い詰めましたが、義経は俗にいう「八艘飛び」で味方の船に逃れ、果たせませんでした。
敗戦を覚悟した二位の尼は、「海の底にも都はあります」と8歳の安徳天皇を抱いて海峡に身を投じました。
耳なし芳一
小泉八雲こと、ラフカディオ・ハーンの「怪談」で有名な耳なし芳一を弔う祭り。
赤間神宮境内にある、耳なし芳一の木像がまつられている「芳一堂」や平家一門の墓「七盛塚(ななもりづか)」などを前に、赤間神宮境内で、墓前祭(神事)や琵琶の奉納演奏など慰霊祭が行われます。
龍宮殿
関門海峡を臨み、神社の赤色と丁寧に手入れがされた庭園の緑がとてもあざやかな、赤間神宮内にある龍宮殿は格式高い結婚式・披露宴を挙げたい方にはお勧めの、神前結婚式が行える式場です。
結婚式(神殿)と披露宴会場が同じ敷地内にあり、とても便利で結婚式・披露宴の内容や料理、サービスなど価格以上に満足度が高いと好評です。
神前式をお考えの方は、一度見学へいらしてください。